TOMさん、企画・立案、BINさんも全面協力で実現した「京都魔界ツアー」。
今日は、その京都魔界ツアーに参加しました。
教科書やガイドブックにはほとんど載らない、京都のもうひとつの顔。
生々しい京都の歴史に触れる、とっても中身の濃い走りになりました。
私達のツアーを応援(?)するかのように、この日の天気は大荒れ。
雨、雪、あられ、突風、そして強風。
降ったかと思うとやみ、やんだかと思うと激しく降る雪。
そんなすごい天気の一日になりました。
でもそんな天気に負けず、我々仲良しゴジラ組の仲間はみんな最後まで安全に徹して走りきることができました!

本日走行距離、約75km。(正確には73.43km)


2004年3月6日(土)




集合時間の午前8時に五条大橋に駆けつけましたが、だれもいません。
すわ!すでに我がゴジラ組のメンバーが、魔界に連れて行かれたのか?!
でもそうではなく、よく考えると集合場所は午前8時ではなく、午前9時でした。
朝食を食べずに自宅を出たので、京都駅近くまで戻り「本家・第一旭」で「肉なし・大盛り」を食べます。
この店は、朝の5時半から営業しています。
スープがとにかくうまいんです。(#^.^#)



最初の魔界である不動寺着。
京都の四磐座(よんいわくら)の一つの南磐座(みなみいわくら)。
京都に磐座が置かれたのは平安時代。
桓武天皇が王城守護のために 四磐座を定め、悪鬼を退散させる霊験があるとされた「一切経」を、その磐座の 下に埋めたことに始まるのだそうです。



ここは大都市・京都市の市街地ど真ん中。
でも、とってもそうは思えない静かな時間が流れていました。



松原橋。
牛和歌丸と弁慶が出会ったのは今の五条大橋でなくこの松原橋だってTOMさんから聞き、驚きました。



今はとっても平穏なこの川原。
昔は、すごいところだったようです。



京都らしい街並を眺めながら走ります。
ここでhirunecoさんと合流しました。



路地は京都だけにあるわけではありませんが、こういう風景。
本当に京都らしいって思います。



六波羅密寺着。
六原は地名。
波羅密とは梵語で「到彼岸」、あの世に到達することを意味するそうです。



六波羅密寺は西国順礼札所。
本尊は、十一面観音です。
天暦五年春頃、京都で疫病が大流行し、京都はさながら屍の街。
そこで空也上人は、十一面の観音をおがんだ後、観音を車に乗せ街を周りました。
すると不思議なことに、観音を曳いて周った町内は病が治まったとか。



六道の辻。
この世と、あの世の境です。
六道の地名の由来は、昔におびただしい人骨が出土したため 髑髏原と云われていた時期もあって、この髑髏「「どくろ」が後に 「六道」になったのではないかとされています。
江戸時代初期までは「髑髏町」と云われていましたが、轆轤挽(ろくろびき)職人が多く 住む町だったので、京都所司代の命により轆轤町に変更されたとか。
石碑の右側には「松原通大和大路東入轆轤町」と書かれたプレートが見えます。



円福寺。
弘法大師がこの地の建てた地蔵堂。
壇林皇后の皇子の正良親王が病を患った時に皇后がこの地蔵堂で回復を祈願し、その後親王が無事成長したことから、「子育て地蔵」としても知られています。
この寺の「九相観の図」。
女性が死を迎えた後、腐乱し白骨化するまでの様子を九段階に分けて描いた掛け軸があり、このモデルが壇林皇后だとか・・・。



平安京の葬送の地として名高い鳥辺野への道筋にあり、冥界への入り口といわれた「六道の辻」は、今は日常の生活が営まれている普通の交差点になっています。



六道珍皇寺。
 「六道」とは、生前における行為でだれもが必ずおもむかなければならない「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上」の六種の冥界をいうそうです。
ん?!
BINさんのヘルメットに髑髏が浮かび上がっているように思うのは、きっと私の気のせいですよね。(^_^;)



小野篁が地獄の閻魔大王のお手伝いをしに行く時に使った井戸跡。(右側)
彼は、この井戸から地獄に行っていたということです。



この日の不安定な天気を象徴するような、すごい空。
六道珍皇寺から、北の空をのぞむ



またまた、京都らしい道を走り抜けます。



元気に生きていかなければ!
こんなちょうちんを見て、そんなことを感じました。



穏やかに流れえる鴨川を見て、何だかホッとしました。



祇園歌舞練場。
「人間っていいな!」「生きているっていいな!」
この建物を見て、湧き上がるような生命力を感じました。
様々な困難を乗り切って、先人は生活してきました。
今の私達の生活は、そんな先人の歴史の上に築かれてきたって改めて実感します。



瑞泉寺着。
豊臣秀次ゆかりの寺。
秀次は豊臣秀吉の養子となり関白の位を継ぎましたが、秀吉に実子秀頼が生まれてからは疎んぜられます。
そして1595年に高野山において自害させられました。
彼の首は三条河原に運ばれ、その首の前で秀次の遺児・妻妾39人が処刑されます。
39人は、処刑の朝から死装束に着替えさせられた上で、市内を引き引きまわされます。
その後彼らは秀次の首と涙の対面をしたあと、ついに処刑されてしまいます。
秀次の遺児・妻妾は全員その場に埋葬され、そこには「悪逆塚」または「畜生塚」と呼ばれる大きな塚が築かれました。
その異様な姿は、当時の「洛中洛外図」にも描かれていうとか。
戦乱にかかわらない理由のこうした虐殺は、歴史上他に例がないとか。
豊臣秀吉って、そんなやつだったんですね!(ーー;)



瑞泉寺境内。



瑞泉寺を後にして、三条河原町近くに来ました。
繁華街のど真ん中です。
そこにこの、歴史上の人物としてしか知らない「佐久間象山」(さくましょうざん)の石碑がありました。



佐久間象山の石碑の至近に、池田屋跡。
まん前には、パチンコ屋があります。(@_@;)



先斗町の街並み。
このあたりは、観光客の皆さんもよく知られています。



歩いている人を見ても、ここが京都市街中心部なんだなって実感します。



矢田地蔵尊着。
住僧満米上人が冥土に行き、地獄で見た罪人を救っている地蔵の姿を彫刻してまつったものと伝えられます。
本堂にかかる梵鐘は六道珍皇寺の迎え鐘に対して送り鐘といわれ、死者の霊を迷わず冥土に送るためにつくもので、お盆には多くの人が訪れます。



BINさんの頭・・・・?!(@_@;)



矢田地蔵尊から少し走って、下御霊神社(しもごりょうじんじゃ)着。
1200年の歴史を持つ京都には多くの怨霊が存在したとされ、それらを鎮める祠も数多くあります。
この下御霊神社の祭神も、うした御霊の一つを祭ったもので、京都の中でも特に強い怨霊を八つ祭る神社として知らています。
この八霊を指して、「八所御霊」とも呼ばれています。



創建は平安時代と古いのですが、現在残っている社殿は江戸時代のものです。



次に、京都御所まで来ました。
ここ猿が辻は、御所の築地塀の北東角に鬼門にあたります。
鬼門に角ができないように、こんな形になっています。



この木造の猿には金網がかぶせてあります。
この金網は、木製の猿を保護するためにかぶせてあるのではないとか。
御所の鬼門を守るために日吉大社から遣わされたこの猿、夜な夜な逃げ出して通行人に迷惑をかけたため、金網を張って封じ込められてしまったそうです。



下鴨神社まで走ってきました。



史跡「糺の森」(ただすのもり)内にある奈良の小川。
発掘調査で小川跡が見つかり、復元されたものです。



糺の森は、旧・山背(やましろ)原野の原生樹林の植生を残す唯一の森林です。



京都市街にいるとは思えないほど静か。
でも多くの社殿があります。



尾形光琳の『紅白梅図屏風』のモデルとなったという『光琳の梅』が境内にありました。
とっても濃厚な色の梅でした。



結婚式が、何組もありました。



縁結びの神も。
この樹をよく見てください。
少し分かりにくいですが、2本の樹が途中で1本になっています。



下鴨神社を後にして天寧寺へ。
山門のを入ると正面に本堂はありません。
本堂は門を入って左側にあります。
したがって、山門のまっすぐ向こうにははるかかなたの比叡山が見るのです。
「額縁門」とTOMさんが言っていましたが、この日は荒れた天候のため雪雲が邪魔をして残念ながら比叡山は見えませんでした。



「額縁門」をくぐってみました。



御所を後にして、上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)着。
上御霊神社は、御霊信仰の中心となりました。
皇室の産土神として、また京都の守護神として 信仰を集めてきた京都で最も古い神社の一つです。
政争の犠牲になってきた庶民がこういう神社に参拝してきたことに、京都の歴史の古さと不思議さを感じます。
この場所は応仁の乱の発端の地。
この上御霊神社で、畠山政長と畠山義就の衝突が始まり、東・西二軍に分かれての 戦乱が、京都の町を焼き尽くすことになります。
応仁の乱の西軍の陣地となったことから 「西陣」との地名が残るそうです。
なお、写真中央に球形の白いものがありますが、これは激しく降る雪がレンズに付着したのですので、念のため。



表千家の遺跡。
上御霊神社の近くにあります。



不審庵。
1591年に秀吉により自害させられた千利休。
利休の亡き後、利休の子である少庵が秀吉より千家再興を許され、当地に利休遺跡の「不審庵」を復元しました。



1648年に、利休の孫である)宗且が71歳の時、不審庵を三男宗左にゆずり、末子の四男宗室を連れて、北裏に今日庵を建て隠居。
裏干家の名は、表千家・不審庵の北裏にあることから出たものとのことです。



「人形寺」の別名がある宝鏡寺着。
孝明天皇が愛した人形の他、数百体の人形があり・人形寺ともいわれています。
人形供養を毎日行っています。



か、かわいい(^_^;)人形さんが刻まれています。



宝鏡寺から少し走って、一条戻り橋着。
三善清行の子である浄蔵は紀州熊野で修行に励んでいましたが、その浄蔵のもとに、父清行危篤の報せが。
必死に京を目指したものの、浄蔵が京へ着いた時には父清行はすでに他界していました。
一条通の堀川に架かる橋の上で父の葬列に出くわした浄蔵は、「何であと一日早く帰ってこれなかったのだろう。」 と悔やみました。
浄蔵は「もう一度話がしたい」と願いを込めて、祈りました。
すると突如周囲に闇が立ち込め、閃光が走りました。
そして父三善清行が蘇り、むっくりと身を起こしたのです。
浄蔵と清行は抱き合い、親子の最後の会話をすることができたのです。
それからこの橋を、死んだ人も生き返るという意味から、「戻り橋」と呼ぶようになりました。



一条戻り橋にある、清明神社。
境内には、付け替えられる前の一条戻り橋が保存してあります。



こんなお店もありました。(^_^;)



千本閻魔堂着。
この寺が閻魔堂と呼ばれるのは、この寺の開基が小野篁であるからです。
小野篁は昼間は朝廷に仕え、夜は六波羅の六道珍皇寺の井戸から閻魔大王のもとへ行き、嵯峨釈迦堂から出てきたという伝説がある人物。



次は、釘抜き地蔵。
ここ釘抜地蔵は、弘法大師が819年に)に開創しました。
本尊の石造地蔵菩薩像は種々の苦しみを抜き取ってくれるため、「苦抜地蔵」と呼ばれて厚い信仰を集めていましたが、いつしか「釘抜地蔵」の名で呼ばれるようになりました



境内は、一日中参拝者が絶えません。



先ほどまで激しく降っていた雪が上がり、青空が。
京都らしい道を、の〜んびりと走ります。



北野天満宮着。
北野天満宮は、平安時代初期を代表する歌人であった菅原道真(すがわらのみちざね)が祭神です。
菅原道真没後、京都で落雷・地震が連続したたのが道真公のたたりだと思われ、霊を慰めようと創建されました。



境内は、梅が満開。



天下統一を果たした豊臣秀吉が,長い戦乱で荒れ果てた京都の都市を再建する一環と外敵の来襲に備える防塁として「御土居」(おどい)を作りました。
御土居は鴨川の氾濫から市街を守る堤防としての意味もあったようです。
建築開始から3〜5年という突貫工事で1591年に築かれましたが、多くの人が労働に狩り出されました。



こんな堤が都の街を取り囲み、この堤の中を「洛中」、外を「洛外」と当時は呼ばれました。
この御土居の出入り口は当時「口」と呼ばれており、「鞍馬口」「大原口」など今でもその名称は使われています。



午前の探索を終わって、昼食〜。♪
TOMさんお勧めの店。
これだけ豪華な料理が、たったの1000円!



まだまだ走ります。
昼食を終えて、広沢の池畔の児(ちご)神社へ。
寛朝大僧正は、広沢池の北にそびえる遍照寺山の麓に遍照寺を創建したことでも知られていますが、彼が没後竜になって天の上っていったことを目撃した子どもは、嘆き悲しみのあまり広沢池に身を沈めてしまったそうです。



神社境内には、僧正が広沢池のほとりで座禅をしていた時、そばにいた子どもが腰掛けていたという石のイスが残っていました。



児神社を後にして、時おり激しい雪に降られながら、北嵯峨を走ります。



大覚寺まで、やって来ました。



愛宕(おたぎ)念仏寺着。
とってもいい雰囲気です。



愛宕念仏寺を後にして、「まゆ村」さんへ。
まゆ村さんでは、最高の歓待をしていただきました。



まゆ村さんで心身ともに休ませていただいた後、清涼寺へ。



「六道」の石碑。
小野篁が、夜に六波羅の六道珍皇寺の井戸から閻魔大王のもとへ行き、閻魔大王のもとから帰る時にはここ嵯峨釈迦堂にかつてあった井戸から出てきたということです。



清涼寺にも、美しい梅が咲いていました。



お経が流れている清涼寺の「経蔵」に来ました。
経蔵の中のこの六角形の物体を1回転させると、お経をすべて読んだことになるのだそうです。
私たち4人は、全員回しました。
お経は回しっぱなしのテープから聞こえてきていました。(^_^;)



清涼寺を後にして、有栖川と西高瀬川が交わっている場所にTOMさんの案内で来ました。
ここで驚くことを知りました!
中央に見える水面は西高瀬川のもので、水はこちら側に流れてきています。
西高瀬川と直角に交差するコンクリートの橋が架かる有栖川の水面は西高瀬川の水面よりはるかに低く、有栖川の水面は全く見えていません。
この有栖川よりはるかに高い水面を持つ西高瀬川の水が、有栖川に流れ込まずに向こう側から私が写真を写しているこちら側にくるのです。
いかにして・・・・・??



コンクリートの橋で有栖川を渡って、西高瀬川の上流側に来ました。
実は西高瀬川の水は、この場所から地下のパイプに流れ込み、直角に交わる有栖川のはるかに低い川底を通って向こう側で再び西高瀬川の流れとして姿を現すのです。
西高瀬川の水面よりはるかに低い有栖川の水面の更に下にある川底の下を通るのに、一切の動力は使われていません。
「サイフォン」の原理でこんな離れ業ができることと、それを実現してしまう技術と発想に、心から驚きました!!



蛇塚遺跡着。
現在は後円部の石室だけが残っていますが、もともとは奈良の石舞台よりも大きい日本最大級の古墳です。
以前、石室の隙間に無数の蛇がいたことから「蛇塚」と呼ばれるようになったそうです。



蛇塚遺跡を後にして、蚕ノ社に来ました。
とっても不思議な「三本柱の鳥居」があります。



京都魔界めぐりの最終地である神泉苑(しんせんえん)着。
ここ神泉苑は、784年に桓武天皇の平安京造営の際に禁苑(皇居の庭)として設けられました。
風水で言う龍穴にあたり、雨を降らす龍がいるということと、空海(弘法大師)の祈雨(雨乞い)でも有名です。
京都1200年の不思議に触れた京都魔界めぐりも、ここで終わりです。
TOMさん、素晴らしい案内をありがとうございました。m(__)m



帰路で、近代的な京都駅舎に夕陽が当たるのを眺めながら、何だか夢を見ていたような一日だって気がしました。
京都って、本当にいくつもの顔があります。



鴨川を渡ります。
鴨川の悠久の流れは、京都1200年の歴史をその水に映してきたんだなあ・・・・。
川をしばし眺めながてちょっぴりおセンチになった私は、なぜかフトそんなことを考えてしまいました。



観月橋で、日没を迎えます。

京都1200年の歴史。
今日は、その歴史の一端に触れることができました。
観光地と思っていた京都の、おどろおどろしい面を見て、そして生の歴史に触れる一日でした。
権力者の横暴に翻弄され、歴史の表舞台には出るはずもなかったけれども、したたかに生きてきた庶民。
京都の魔界をめぐって京都の闇に触れ、魔界という舞台の影にいた無数の庶民のことに思いが及びました。


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