今日は、『平家物語』の京都を旅するツアー」でした。
牛若丸のファンの私は源氏ひいきだったのですが、今回のツアーで少しだけ考え方が変わりました。
歴史って面白いんですね!
学生時代にそのことに気がついていたら、歴史科でもっといい成績だっただろうなあって思いました。(^_^;)

本日の走行距離、約110km(正確には109.85km)。


2005年3月27日(日)




伏見稲荷大社前通過。
自宅を出て40分程です。



車がひっきりなしに伏見稲荷大社境内に入ってきます。
何かの行事があるようです。



集合場所の七条大橋着。



参加者は、TOMさん、BINさん、まむくん、そして私。
4人が揃ったところで最初の訪問地。
法住寺へ。



藤原為光創建の寺が1032年に焼失。
その跡地に、後白河上皇の御所法住寺殿造営の際に諸堂を建立した事にこの法住寺は始まります。
後白河法皇
の木造が安置してあります。



法住寺の次に法住寺の向かいにある三十三間堂を見た後、大和大路七条北西角にある「加茂七石庭」着。
幅はおよそ1.5m、長さは10m程の小さいけれど美しい庭。
ここは七条殿跡。



この加茂七石庭は解説板の解説によると、「平安建都千二百年を記念して平家一門の栄華を偲ぶここ六波羅第跡の七条通り大和大路の地に新しく加茂七石庭を造り京文化の心を形にあらわし広く公開することになりました。加茂七石は高野川賀茂川水系に産する古来名石とうたわれた京の七石で右より紫貴船石 鞍馬石 畚下石 紅加茂石 八瀬真黒石 雲ヶ畑石 賎機糸掛石」だそうです。



少し走って「小松谷正林寺」着。



ここ少林寺は、平重盛の別邸跡。
その後九条関白兼実の別邸となり、浄土宗の開祖法然上人が流罪の時に愛弟子と別れここより出発されたと言われています。



付近のとある施設の中には、この様な石碑が・・・・。



次に六波羅蜜寺へ。
最大時には、ここに236もの建物があったそうです。
宿泊施設が無い当時のこと、平家が都にやってきた時に分宿した建物。
当時は、軍勢をとどめるのにお寺を使っていたとは、今では想像ができません。

清盛、重盛の時代には平家一門の邸館が建ち並んでいたといわれています。



平家ゆかりのこの地は、当然源氏とも無縁ではありません。
牛若丸の母の常盤は、母の関屋が平家に捕らえられたと知って、悲しみに暮れながら、乙竹・今若・牛若の3人の子を連れて逃れていた奈良からここ六波羅蜜寺へやって来ます。
その幼い3人の子を連れての悲しみの旅の途中で、激しい雪を避けるために寄ったのが「源義経ゆかりの地巡り」で行った、あの寶樹寺なのです。



六波羅蜜寺境内にいると、心が休まる気がしてきます。



六波羅蜜寺を後にして、八坂の塔までやってきました。



円山公園着。
美しい梅が我々を迎えてくれました。



ズーム!



円山公園内にこんな忠盛灯籠などという物があったとは全く知りませんでしたが、灯篭には以下のような話が伝わっています。
白河法皇が東山の麓 祇園の辺りにあった祇園女御の住居へ通っていた際、まだ宵の口だと言うのに雨が降ってすっかり暗くなり、視界が悪くなりました。
祇園女御の住まいに近付いた時、何やら光る怪しいものが現れました。
頭からは銀の針がいっぱい突き出て、右手に槌を左手に光る物を持ったその姿は、まさに鬼そのものでした。
「すわ出た如何がせん!」と、白河法皇も御付きの者も すっかり慌ててしまいました。
清盛の父忠盛は一介の武士でしたが、白河法皇は従者の中に居た忠盛を見つけて忠盛に 「汝そこに居たのか。あの鬼を殺せ!」と命じます。
しかし、忠盛には皆が騒ぐ程 狂暴な怪物にはどうしても思えませんでした。
「おそらく狐か狸だろう、殺すのは簡単だが殺生はしたくない、出来れば、生け捕りにしよう」と考えて、忠盛はおもむろに近付いて行きました。
光ったり消えたりするその怪物に走り寄って組み伏せた忠盛でしたが、驚くことに組み付かれた相手が「これ何をなさる」と叫んだのです。
よく見るとそれは狐でも狸でもなく、ただの老人でした。
光を灯して更によくよく見ると、祇園女御に仕える老人が祇園女御の灯篭に灯を入れんとしていた老人だったのです。
雨除けの蓑の麦わらが銀の針のように光り、顔は灯明に照らされて鬼のように赤く染まっていました。
白河法皇は、「もし殺していたなら、さぞ惨いことになったことだろう。忠盛の振る舞いは誠に思慮深き。武者とは心優しきものかな」と、彼の冷静沈着な行いを愛でて、褒美に最愛の祇園女御を、忠盛に下されたとか・・・・。
忠盛と祇園女御の子どもが「平清盛」との説もあります。



そんないわれがある石灯篭。
まじまじと見ます。



八坂神社の明るい境内。
古い歴史がある京都、本当に様々な事柄が語り継がれています。



長楽寺着。
長楽寺建礼門院ゆかりの寺です。
この近くに、「夢」という字が刻まれた石があります。
その石の文字を刻んだのは、円山公園の近くに住んでいた町医者の「赤穂藩医・寺井玄渓」。
寺井玄渓とは、皆さん方がよくご存知の「忠臣蔵」の大石内蔵助らを支え、そして討ち入りをも希望した人物。
しかし81歳という高齢と医者という身分のため、大石内蔵助らに止められ討ち入り参加を断念。
その代わり、大石内蔵助らの切腹後に大石を初めとする全ての義士の遺児達の面倒を生涯見たという人物。
寺井は大石内蔵助を初めとする人達の切腹を知り、「人生は本当に はかない夢のようだ」と感じて、近くにあった岩に「夢」という文字をこの岩に彫りました。.
力強い字体で刻まれているこの「夢」という文字。
それは希望を表す「夢」という意味などではなく、玄渓のとっても悲しい心で刻まれた文字なのです。
その寺井玄渓も、ここ長楽寺に眠っています。



円山公園を後にして、平安神宮の巨大鳥居前通過。



白川院庭園跡着。



法勝寺(ほっしょうじ)跡。
ここは白河天皇によって1077年に創建された御願寺だったところで、六勝寺の中で最大のものでした。
伽藍は顕教・密教・浄土・禅などを統合した構築で、当時の貴族の信仰をよく表しています。
極めて高い九重塔もありましたが、1185年の大地震で九重塔以外のほとんどの建物が倒壊。
残った九重塔も、1342年の火災で焼失してしまいます。



法勝寺跡の解説。



法勝寺跡地は私立学校共済組合の保養施設になり、このような庭園を敷地内に見ることができます。



庭園には馬酔木(あしび)の花が満開でした。



次は京都御所へ。



御所内にある厳島神社が見えてきました。



厳島神社近くには、捨翠亭(しゅうすいてい)があります。



御所の中には美しい紅梅が。



厳島神社境内へ入ります。



九条池の畔に建つ厳島神社は、日宋貿易で富を得ていた平清盛が、母の祇園女御をまつるために兵庫の築島に厳島神社を建てた際に造ったもので、室町時代に京に移築、江戸時代に現在地に移されたと伝えられています。



捨翠亭ズーム!
見えている木は、けっこう有名な百日紅(さるすべり)です。



ここ厳島神社の鳥居は「京都3鳥居」の一つ。
最上部の笠木の部分が中国風の曲線を描いていることが特徴です。



破風風鳥居の解説。



京都御所を後にして、浄教寺へ。



浄教寺は、平重盛之碑がある平家ゆかりの寺。



浄教寺本堂。



浄教寺は、市内の中心部・寺町電気街の中にひっそりと建っています。



浄教寺を後にして、梅小路公園へ。
梅小路公園には、木蓮の花が盛りでした。



梅小路公園は、近くの蒸気機関車間にはSLが動態保存されているし、公園からは至近でJRや新幹線の通過を見ることができます。
京都駅近くですが週末でも人で混雑することはなく、京都散策の際の休憩場所としては穴場的存在です。



何とこの辺り、平清盛の大邸宅があった場所だそうです。
し、知らなかった。(~_~)



公園内には美しい花が。



梅小路公園を後にして、若一(にゃくいち)神社へ。
平安末期平清盛がここに別邸を建て「西八条殿」と呼び、紀州熊野の若一王子の御霊を祭ったのが始まりだと言われています。



若一神社の向かいには、平清盛手植えの大楠が。
梅小路に平家の屋敷を造った清盛は、どうもやることなすことうまくいかず、屋敷に奉った熊野権現を朝な夕なに拝んでいましたが、ある日神託が。
「汝の西八条の屋敷に我が中宮若一王子の神体が土中に埋まっているので、これを掘り出し鎮守として奉れ」と。
ところが、いくら掘っても見つからないうちに日が沈み辺りが真っ暗に。
すっると暗闇から光が差してきたのでそこを掘ると、黄金の若一王子の神体が表れ、清盛はそこに神殿を建て、楠の幼木を植えたのです。



大楠の一角は神域。
この大楠を避けるために、京都の大通りである西大路通りがカーブしています。
これは今から60年以上前に市電を走らせる計画ができて、道の真ん中にあったこの楠が邪魔になるので移動させようとした時のことが原因。
神木といえども邪魔になるこの木を移動させようとして枝を切り払った職人が木から落ちたり、またその家族に不幸が続いたため楠は移転させられることなくここに残り、結果的に市電軌道は曲がって建設されてしまったのです。
市電が廃止された後も、この楠はでんとここに鎮座したまま京都の移ろいを眺めています。
「不思議の都・京都」を実感します。



確認します。
直線の西大路通りが、確かにこの辺りから不自然な緑地帯が突然現れ、道が右にカーブ。



一見すると直線のようですが、先ほどのカーブする前の道の直線路は左側の細い道。
ドンドン緑地帯が大きくなり、若一神社に近づくと西大路通りは更に右に大きくカーブしいます。



そして、ここに至ります。
この先でまた西大路通りは左にカーブして、直線になります。



若一神社境内に、何やら歌碑が。



何と書いてあるのかな・・・・。(^_^;)



御神水を味わってみました。
源平の味がしました。



平清盛像。



若一神社を後にして、嵐山へ。
小督は中納言藤原成範が父で、成範の官名が左兵衛であるところから、その子で小督と呼ばれていました。
美女の小督は、運命に翻弄されながらで平清盛の二人の娘婿と関係を持つことになり、そのことで清盛に疎んじられ命を狙われて、ここ嵐山に身を隠します。
小督に思いを寄せていた高倉天皇は、小督が嵯峨野辺りに隠れ住んでいると知るや、武士、源仲国に 探索を命じます。
仲国は嵐山で聞き覚えのある「想夫憐」の琴の音を聞きつけ、小督を探し当てます。
その琴の音を聞きつけた場所がここなのです。



美しい渡月橋を眺めながら、当時へと思いを馳せます。
小督もこの渡月橋を眺めたのでしょうか・・・・・。



仲国に諭され隠れるように宮中に戻った小督は、再び高倉天皇の寵愛を受けます。
しかし中宮徳子より先に天皇の子供を宿した ことがさらに清盛の怒りを招く結果となり、 清盛は無理矢理 小督の髪を剃り出家させてしまいます。



小督塚。
身勝手な男達と時代に翻弄された小督が、ここに眠っています。



小督塚を後にして、嵯峨野の美しい竹林を眺めながら快走。



竹がある嵯峨野の風景。
素敵です!



常寂光寺前通過。



常寂光寺境内。



祇王寺着。
平清盛の寵愛を受けていた祇王は仏御前の出現によって捨てられ、祇王は母と妹とともに嵯峨野に庵を結び尼となりました。
後に仏御前も祇王を追い、4人の女性はここ祇王寺で念仏三昧の余生を過ごしました。



祇王寺のすぐ上に、滝口寺があります。
平重盛の侍、斉藤滝口時頼が清盛の西八条殿での花見の宴で女官横笛の舞姿に恋しく思うようになり、恋文を送るようになりました。
しかし、その恋を父時頼に反対され、時頼は嵯峨・小倉山の往生院で滝口入道として出家してしまいます。
横笛は後を追って来ますが入道の決心はかたく、「ここにはそのような人はおりません」と言われた横笛は自分も法華寺で尼になってしまいます。



滝口寺境内。



滝口寺のことが詳しく書いてある案内板。



滝口寺を後にして東進。
嵯峨野で有名なコロッケ屋さんでSTOP!



昼食前のオヤツタイム!(^^♪



おいしいコロッケと串カツを、有栖川の橋の欄干に腰掛けていただきます。(*^^)v
串カツもコロッケも、どちらも1つ50円。
同じものが嵐山店では100円だそうです。



目立たずひっそりと建つ源光寺着。
ここは尼寺で、「常盤地蔵」とも呼ばれています。
ここには常盤御前が眠っています。



源光寺本堂。



源光寺は、とってもいい雰囲気のお寺でした。



境内には美しい梅の花が。



ズーム!



名水跡。



牛若丸誕生井着。



胞衣塚(えなづか)。
牛若丸のへその緒がここに埋められていたと伝わります。



ひた走って、北東部クリーンセンター前通過。
ここは、京都一周トレイル歩破で何度か歩いて通りました。
懐かしの場所です。



叡電の踏切を渡ります。



これまた懐かしい・・・。
って言ってもこの冬ですが。(^_^;)
吹雪の中をここを徒歩で通過し、比叡山に登りました。



この道しるべだけを頼りにして、少し前に京都一周トレイルを歩破を果たしました。



静原は、とっても素敵な里。



ビニールハウスの中では、きれいな花が出荷されるのを待っていました。



大原御殿前通過。



普段絶対目にすることができない石碑。
えっと、何の石碑だったかな。(ーー;)



寂光院境内。



大原の里では、時間がゆっくりと流れているような気になります。



もう結構遅い時間なのに、買い物を楽しむ観光客の皆さんの姿が。



寂光院の石段。



寂光院を後にして、平家物語に出てくる「朧の清水」前通過。



次に三千院を目指します。



「呂律(ろれつ)が回らない」との言葉は、ここ大原が発祥の地だったとは。(@_@;)
この案内板の下を「呂川」が流れています。



間もなく三千院。



三千院着。



三千院の周辺を散策。



紅葉の季節には観光客で溢れかえるこの辺り。
今は実に優雅に散策できます。



渡り廊下の向こうに「極楽往生院」の屋根が見えています。



律川発見!



松林院。
境内に入るのは有料ですが、入らなくってもこうして実にしっかりと見ることができるんです。
TOMさんは「かわいそうなぐらいに丸見え」って言っていました。
まさにその通りだと感心しました。



松林院の解説。



宝泉院。



三千院付近には、いくつものお寺があります。



Uターンします。



しばし走って、八瀬の釜風呂温泉着。



これが釜風呂です。
現在は使われていません。



釜風呂の入り口。



釜風呂内部。



釜風呂は、こんな建物の中に保存されています。



釜風呂の上部。
何だか「入道」を連想します。(^_^;)



釜風呂温泉に入ろうと思えば、ここに宿泊すれば叶います。
旅館の人に尋ねると、平日で1泊2食付で1万4千円という話でした。
ここの敷地に釜風呂温泉は保存されていますが、旅館の中には新しい釜風呂があるのです。



旅館内部。



釜風呂って、有形民俗文化財だったんですね!(#^.^#)


京都は本当に驚くほど色々な顔を持っているなって、この日も心から実感しました。


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