今日は、夕刻トレーニングで「陸軍祝園弾薬庫引込み線跡」を探索しました。

本日の走行距離、約50km(通勤距離を含む&正確には不明=サイクルコンピュータ未装着)

2005年3月30日(水)




夕刻トレーニングで、「陸軍祝園弾薬庫」へ火薬を運ぶために建設された「陸軍祝園弾薬庫引込み線」跡の探索を開始。
「陸軍祝園弾薬庫」は当時、東洋一の規模だったそうです。(>_<)
それに関しての私の手持ちの情報があまりなく、引込み線跡がどこだか分からないまま走りながら探すことになります。
するとついに、JR学研都市線下狛駅より北側の辺りでそれらしき場所を発見することができました!
この草に覆われた道ををまっすぐ行ってみましたが、途中から自転車では行けそうになくなってきたのでUターン。



道路を横切ります。
後ろを振り返ると、行き止まりのように細くなっているさっきの道。



ドンドン進んで行きます。
進んでいくと冬枯れの草に覆われた道が途切れ、いつの間にか車の通過跡がある地道に。
後を振り返ってみました。



府道22号線(木津・八幡線)を横切りました。



前進しながら、後ろを何度も振り返ります。
引込み線跡の雰囲気はやはり濃厚。


更に進むと、ついに鉄橋跡発見!
やはり、今通ってきた道が陸軍祝園弾薬庫引込み線跡だったのです。(*^^)v



鉄橋跡を確認後、改めて後を振り返ります。
この舗装道路こそが、陸軍祝園弾薬庫引込み線跡!



かなり老朽化している鉄橋跡の下に降りてみることにします。



鉄橋跡の真下。



鉄橋跡の対岸にやって来ました。
対岸に行こうとして道を探したんですが、見当たりません。
結局府道22号線(木津・八幡線)を通らないと、この対岸に渡ることは出来ませんでした。



夕陽に染まる鉄橋跡。
まさに、「歴史の生き証人」って感じです。
当時「東洋一」の規模を誇った弾薬庫に貯蔵された弾薬が何をするために使われたのかということは、改めて歴史をひも解かなくても分かります。



対岸から先には、更に「陸軍祝園弾薬庫引込み線跡」が続いています。
写真に写っている軽自動車の方は、「いずれこの鉄橋跡は撤去される」って教えてくださいました。
陸軍祝園弾薬庫引込み線跡鉄橋は、風化して残念ながらいずれは消えてしまうであろう愛宕山鉄道と異なり、人工的に破壊されてしまう運命のようです。



この辺りで、陸軍祝園弾薬庫引込み線跡はどこなのか全く分からなくなりました。
よく分かりませんが、おそらくこの道路がそうだろうと見当をつけて進みます。



しばらく走って、「火気厳禁」と書いてある場所に至りました。
ここがかつての、火薬庫跡のようです。
火気厳禁!?
過去に火薬庫で、そしてひよっとして今でも火薬庫・・・・・・・?!(ーー;)
もしも実際にそうなら、「歴史は決して繰り返して欲しくない」って、心から感じました。



Uターンして、帰宅モードに。



木津川沿い自転車道路に入りました。



玉水橋着。



間もなく日没。
夕陽に照らされる木津川を眺めながら、玉水橋を渡ります。



帰路で、仕事と無関係ではない用事で、とある施設に立ち寄りました。
その施設の敷地内には、美しいサクラが咲き誇っていました。
とっても、きれい!(#^.^#)



ズーム!



鴻巣山運動公園前通過。
サクラはまだ咲いていないけれど、「サクラ祭り」がもう始まっていました。
だれもいないひっそりした会場一帯に、明るい提灯だけがまるで自己主張をしているかのよう光っていました。


今日の夕刻トレでは、「廃線跡探索」の1つをこなしました。
今日は東洋一の規模を誇った、祝園弾薬庫の引込み線跡を探索してつくづく思いました。
「国を守るのは火薬でなく、まともな政治なんだな」ってことを。
そして、守るべき対象の「国」ってのは、一体何を指すのかなってことも。
まだまだある、京都府南部周辺の「廃線跡」。
さて次はどこに行こうかな!(^^♪
そして、次はどんなことを感じるのだろうかなあ・・・・・。


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