今日は用事が出来たのでとサクラの開花がまだなので、妻とのサクラ鑑賞は来週に延期しました。
昼前に家を出て、八幡の「軍人病院?」跡の探索と、陸軍宇治火薬庫引込み線跡の探索を行いました。
本日の走行距離約50km。(正確には50.25km)
2005年4月2日(土)
自宅を出発。
のどかな風景を見ながら西進します。
前方には国道1号線が見えています。
木津川沿い自転車道を走ります。
「おけいはん」の木津川鉄橋。
京阪電車の高架付近で一般道に下りて、安居(あんご)橋着。
時代劇に出てきそうな安居橋付近の風景。
安居橋付近では、サクラの花の蕾ががかなり膨らんでいました。
もう咲いている花も!
モスラ号@安居橋。
京阪八幡市駅着。
駅前のサクラもちらほら咲いていました。
男山ケーブルのホームがよく見える場所に着きました。
前からこんな階段があるのは知っていましたが、「軍人病院」と言われているのはどうやらここから上がるようです。
それにしても、「この階段は八幡宮に行けません。」という説明。
こんな立派な階段があるので、「じゃどこに行けるんだろう。」という疑問が膨らむと思うのですが・・・・。
階段を上がります。
男山ケーブルがよく見えます。
しっかりとした階段が続きます。
この道は、どこに続くのだろう・・・・。
倒木が行く手を塞いでいました。
でも徒歩ではほとんど支障なく通ることができます。
倒木は、台風などの強風が原因のようです。
また倒木がありました。
今度は通りにくそう。
ところが、横に迂回路が。
かなり多くの人がこの道を通っているようです。
この道って、どこに行くのだろう・・・・・?!
「軍人がどうのこうのという石碑が建っているので軍人病院と言われているのかなあ」などということを、以前愛宕ケーブルの情報を探していてネットで読んだことがあります。
この石碑がどうやら、その「軍人どうのこうの」ていう石碑のようです。
石碑から少し上がると、何やら廃墟跡らしきものが!
廃墟跡がありました。
かなり広く、建物内はタイル張りの小部屋が数多くあったことが分かります。
各部屋には水道と電気のコンセント跡が。
やはり、病院でしょうか。
あるいは「隔離病棟」だったのでしょうか。
風呂場のような場所もありました。
屋内と、そして建物の周りもくまなく探しましたが、この建物がなんだったか分かるような分かるものは皆無。
建物は屋根がなくかなり老朽化していますが、コンクリート製の庇が残っています。
それがいつ崩落するか分からないので、「立ち入り禁止」などの表示は無いものの建物には近づかない方がいいと思います。
建物の感じからすると、病院だった可能性が確かにあります。
しかし、もしそうだとすると、病人や怪我人がわざわざ急峻な斜面を登ってこんな所まで来なければなりません。
それではあまりにも不合理です。
疑問を掲げながら、廃墟跡を後にします。
ところが・・・・。
ここから先には道が無いのです。
つまり多くの踏み跡があり しっかりと道が残っていたのですが、その道は この廃墟跡で行き止まり。(>_<)
周辺を歩いているうちに、男山ケーブルがよく見える場所に出ました。
こんな角度でケーブルの線路を見るのは初めて。(*^^)v
男山散策路・こもれびルートに出たようです。
下山していると、神応寺に出ました。
住職の奥さんがおられたので、「軍人病院」について尋ねると詳しく説明してくださいました。
話によると、あの建物は「パゴダ」というインドの仏塔をイメージしたものを造るということで、建設が始まったのだそうです。
ところが、電気が通るところまで工事が進んだところで、資金難で頓挫。
建物は使われることもなくそのまま放置され、今日に至っているのだとか。
タイル張りの小部屋が多くあったことの理由は分かりませんが、それでも納得できました。
使われることがなかったので、生活跡など当時の痕跡が何一つなかったのです。
神応寺境内を散策。
お賽銭を入れようと賽銭箱を探したのですが、ありませんでした。
間もなく下山完了。
「航海記念塔」が見えてきました。
八幡市駅前着。
駅のケーブル乗り場近くのサクラも、少しですが咲いていました。
モスラ号、お待たせ!
次は背割堤へ。
変わった石の横を通過。
この一角は、御幸橋・橋詰広場だそうです。
信号待ち間に、タンポポの写真を撮りました。
背割堤着。
サクラの代わりに、梅が咲いていました。
サクラのトンネル。
このサクラは、あと1週間もしないうちに満開になるんでしょうね。
それでも、既に咲いている花もチラホラ。
背割堤の先端着。
延々と続く桜並木。
これらが一斉に開花したら・・・・。
楽しみです。
八幡を後にして、今度は木幡を目指します。
今は花の時期。
美しい雪柳があちこちに。
井川沿いのサクラも、既に咲いているものがありました。
JR木幡駅着。
「陸軍宇治火薬製造所引込み線」跡の探索開始。
JR木幡駅の北側に延びている自転車道が、引き込み線跡になります。
軍の宇治火薬庫が建設されたのは1875年。
でも引込み線については現物がしっかりと残っているのに、それについての情報はずっと不明。
それは、陸軍が詳細をずっと機密にしてきたためです。
敗戦後も詳細は明らかにならないままでしたが、1990年代にその陸軍の機密文書がみつかり詳細が明らかになったようです。
楽しげなものが。(#^.^#)
自転車道が途切れたところの先に、ほぼ完全な形で線路跡が残ってます。
線路跡へ。
いつでもレールが引けそうなほどしっかりした地盤。
少し行くと、行き止まり。
下に降りてみました。
ここは鉄橋か何かがあったんでしょうね。
コンクリート製の基礎。
ほとんど風化していません。
反対側へ上がりました。
ここから先も、線路跡がずっと伸びています。
線路跡をモスラ号と共に探索。
高架らしき場所に着きました。
高架です。
下は車や自転車・歩行者が走る普通の道路。
その上にこんなものがあったとは。
更に進んでいくと、またまた行き止まり。
フェンスの向こうは、京阪電車宇治線の線路。
フェンスから後を振り返ってみました。
今までは下からしか見ていなかった場所を実際に歩いてみて、「戦争はもう過去のこと」という風潮に異議を唱えたくなりました。
弾薬は侵略戦争に使用され、多くの人が不幸になりました。
またこの弾薬庫は過去に大爆発を起こし、爆発の炎で宇治川対岸でも大火災が発生したということです。
高度な技術を誇った日本。
大量の火薬を製造・保管し強固な軍備を誇り、まさにその自らの力に酔いしれ「怖いものなし」という雰囲気で政治家が国の進路を戦争へ戦争へと突き進めた当時。
言論も封殺され、そしていつの間にか戦争に巻き込まれていく・・・・・・。
そんな当時の生々しさが、戦争を知らない世代の私にも伝わってきました。
そして、そのことは果たして過去のことなのか、今は国民が知らない間に戦争に巻き込まれることは本当にあり得ないのか。
厳しい目で、我々が政治を見守っていかなくてはなりません。
下に降り、先ほどの高架を観察。
高架の下部。
構造が驚くほど「愛宕ケーブル」の高架とよく似ています。
初めて知りました。
高架を後にして、先へと進みます。
京阪のガード下をくぐります。
高さ1.2mのガード。
自転車を横に倒さないと通れませんでした。
高架を越えて、先ほど行き止まりになっていたフェンスを見上げます。
まだ先に線路後が続いています。
京阪電車の線路方面(東)を望む。
西側にもう線路跡は伸びていません。
ここから先の線路跡は、道路になっています。
道路を進みます。
曲がり角。
ここを左に曲がった先に火薬庫がありました。
南側を望む。
この先は隠元橋。
そちらの方に引込み線が伸びていて、弾薬庫に至っていたと考えられます。
探索は全て完了。
「バースデイ・ポイント」を貰いに、今から電気屋さんに行きます。
白木蓮の美しい花があちこちで咲き誇っていました。
春ですね!
「淀川水系火薬ベルト地帯」と言われるほど私の住む周辺はきな臭かったんだと、廃線跡の調査で知ることが出来ました。
「あの戦争の悲惨さを決して忘れてはいけない」と強く感じる一日になりました。
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